ドイツ語を勉強中の方へ |
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一つの言語をマスターするためには、その言葉を話す人たちを愛さなければなりません。 Um eine Sprache zu beherrschen, muß man die Menschen lieben, die diese Sprache sprechen. |
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私自身ドイツ語を始めたのは東京の大学に入学してからのことで、アーベーツェーから始めてもう25年が経ちました。現在は頭の中がドイツ語と日本語だいたい半々で構成されていて、ものを考えるときも自然にドイツ語が出てくる時と、日本語で考える時があります。実際考えているときに何語で考えているかは意識されないことが多いので正確にどちらの割合が大きいかはわかりません。いずれにせよ日常生活においては日本語からドイツ語へ、またはその逆に『訳す』ということはありません。したがって私の職業である通訳・翻訳業務のためには常に意識的なトレーニングが必要になります。外国語を『話せる』というのとプロとして『訳せる』というのはまったく違った次元にあるのです。もちろん『話せる』ことが『訳せる』ことの前提条件ですが、『話せる』ことが『訳せる』ことを意味するわけではないのです。 その理由は、ひとつの言語をマスターし使いこなすこと自体には『訳す』という作業の必要がないことにあります。私たちが中学で初めて英語を習うときに This is a pen. 『これはペンです』と覚えさせられるので、英語を習うことは『英語を日本語に訳すこと』と勘違いしています。もちろん母国語での意味を助けに外国語を学習することは、特に大人の学習者にとっては唯一の道であることもあります。ただ、外国語を話そうとするときに常に『訳する』という中間ステップが入っていると自然な自分の言葉として外国語を身に着けるには大きな障害となります。ひとつの言語を学ぶということは、本来その言葉をそのまま受け取って理解し表現することなのです。 意味のわからない言葉を『訳』なしで学ぶことなど不可能だと思われるかもしれませんが、人間の言語能力は生まれつきのもので、意識的に『学習』されたものではありません。赤ん坊がだんだんと言葉を覚えていく時には、何もないところから一つ一つの言葉や表現と、その意味するところの物や事象がだんだんと結びついてゆき、その数限りない積み重ねでその一個人の言語世界が構築されてゆきます。 新たな言語(外国語)を学ぶときも赤ん坊と同じアプローチをするのが理想的ですが、すでに母国語を持っている場合には、その母国語に基づいて新しい(多くの場合まったく構成の異なる)言語を学ぶことのほうが初歩段階では学習時間の短縮に繋がります。実際私たちが日本語を学ぶのに要した年数を考えると、また別の言語を学ぶのに同じだけの時間をつぎ込むことはできませんし、その必要もありません。外国語を始めるときは『訳』から入ることに問題はありません。但し、なるべく早い段階で『訳』指向の学習から『実践』指向の学習に切り替えることが、最終的にその外国語を『マスター』することができるかどうかの鍵となります。『実践』というのはいわば『幼児的学習法』で、それまでに学んだ語彙・表現の範囲内で理解・表現を実際に試みるということです。限られた語彙数で生活しようとすると言葉が『幼児化』してしまいますが、ひとつの言語を自分のものとするためには絶対に必要なプロセスです。 日常生活に必要な語彙数は決して多いものではありません。それこそ200もあれば十分に日常のコミュニケーションは可能です。コミュニケーション力・表現力の豊かな人間であれば非常に単純な表現・言葉だけで、かなり複雑な内容まで伝達することができます。何故外国語学習の過程で一旦このようなプロセスを踏むことが重要かというと、日常生活のすべてを新しい言語で表現しようとすることで、それまでに覚えたひとつひとつの単語や表現が具体的な日常の事象と結びつくからです。それまで『頭』で覚えたものを『体』で体験するのです。これはそれまでの学習法の中で中心的役割を果たしてきた外国語を一旦日本語に直して理解するという『訳』の中間プロセスを取り除くことに他なりません。水道の蛇口を捻った時流れ出すものを『水』と日本語にしてからWasserとドイツ語に訳すのではなく、冷たい液体が流れ出た瞬間にWasserと思うのです。
日本語の場合でも、蛇口から流れる物質を見てそれを『水』という言葉に置き換える前にまず『イメージ』があって、そのイメージと『水』という言葉が結び付けられているわけです。ですから外国語の場合においてもそのイメージと単語(ここではドイツ語のWasser)を直接結び付けて、その際『水』という訳語を一旦忘れ去る必要があります。もちろん日本語におけるイメージと『水』の関連は、ドイツ語側の関連と平行して存在します。ある物体を見て、それを言葉に直すときに、日本語にするかドイツ語にするかというスイッチの切替をするようなもので、いずれの場合も言葉と物が直接繋がります。 この頭の中のスイッチの切替ができるかどうかが、その外国語を自然に話すことができるようになるかを左右します。常に『訳』しながら外国語を話しても長年の練習でかなりの水準に達することは可能ですが、それでは結局『外国語』のままで終わってしまい、『自分の言葉』になることはありません。また、どのような言語も独自の柔軟性・拡張性をもっていて常に変化・進展していきます。それが自分の言葉になっていれば変化についていくこともほとんど意識しないですみますが、『外国語』である限りひとつひとつの変遷を自国語に変換して解釈しなければなりません。 以上のような考察から私個人の外国語学習法の流れはこのようになります。
もちろんこれは理論的な流れですから、実践にはいろいろなパターンが考えられます。私個人の外国語学習の経験からひとつ言えるのは(これまでに8ヶ国語に手を着けました)、その言葉がものになるかはどうかは学習の過程で自分にあった語学教師(その言葉を母国語とする教師)に出会うかどうかにかかっていると思います。結局言葉は人間から人間に伝授されるもので、本からだけで習得することは不可能です。そこで良い教師に出会うということは、その言葉のおけるいわば『里親』をみつけられるかどうかのようなものです。今私が確実に使いこなせる言語(3ヶ国語)はすべてそういったすばらしい『先生』に出会えたことによるものといっても過言ではありません。 現在ドイツ語学習中の皆さんにもそういった意味での幸運をお祈りします。 |
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ドイツ語通訳 ドイツ語翻訳 ドイツ国家検定通訳・翻訳士 井上英巳 |
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